くしろの観光情報

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啄木76日間の足跡

啄木76日間の足跡

明治41年 啄木76日間の足跡
1月 21日 午後9時半、白石義郎釧路新聞社長と共に釧路駅に降りる。
釧路新聞社理事、佐藤国司宅に泊まる。
22日釧路新聞社に初出勤。東京で同じ下宿にいた佐藤衣川が勤務していることを知る。
23日洲崎町1丁目関下宿(関サワ)の2階8畳間に移る。
24日 三面編集の帳面をとる。日景安太郎主筆から5円借りて文具類を購入。
社長の招待で編輯4人と喜望楼へ行き編集方針を協議。
26日 社長から新聞が一新したと褒められ、5円と銀側時計をもらう。
第一小学校に於ける愛国婦人会に出席し、「現代婦人に関する一場」を演説。
27日前日の演説要旨を『新時代の婦人』と題して掲載。
28日 大木頭のペンネームで政治評論『雲間寸観』を載せることにする。
「佐藤国司氏や社長が、三月になったら家族を呼寄せるようにして、社で何処か家を借りてくれると云ふ。 自分も、来て見たら案外釧路が気持がよいから、さうしようと思ふ」
30日 孝明天皇祭で休み。
一日、手紙をかき、社屋落成祝賀会の福引のクヂを作る。下宿料 4円62銭払う。
31日給料15円、別に佐藤国司氏から10円もらう。
2月 1日小樽の家族へ18円と節子に1円と合わせて19円を送る。
2日社屋落成のため早朝から出社。主筆から羽織袴を借りる。喜望楼で宴会。
4日 浦見町釧路見番附近で失火し、全焼16戸、半焼1戸。
野辺地の父から手紙。少し風邪の気味。
5日釧路に来て初めての雪。社で小樽日報の小林寅吉に会う。
7日函館時代の同僚、遠藤隆(第三小教員)に会う。 銀側時計を質に入れ、5円半を手にして喜望楼で飲む。函館の宮崎郁雨から手紙。
8日支庁へ行き第三小の人事刷新を約束させる。函館時代の友人であり、東川小学校に勤める吉野白村を釧路へ呼ぶ交渉役を依頼される。 宮崎郁雨への手紙にて「現実暴露の悲哀」を述べる。
9日 午前11時から釧路婦人会総会(第一小)に出席。
午后5時から梅月庵で開かれた新聞記者の月次小集に出席。帰りに宝来座で林一座を見る。
10日新夕張炭山事故救援の慈善演劇会(釧路座)。記者による『編輯局の光景』を見る。
11日紀元節。鹿嶋屋と喜望楼へ。釧路座で本行寺の娘三尺ハイカラ(小菅まさゑ)の手を握る。
12日同僚記者の上杉と仏教論、人生論を語る。喜望楼の2階5番(新聞部屋と称していた)部屋へ。
13日夕方、日景主筆と料理店鶤寅へ行く。午後11時、第三小学校の遠藤と鹿島屋へ。 鹿島屋の市子の『釧路の粋界』に自筆の名前を書かせて貰う。
14日冨士屋旅館にいる薩摩琵琶手の有馬正彦君を訪問。風邪の気味。
15日今朝は殊に風邪の気味で11時に起きた。
16日 釧路新聞と北東新報の合同演劇『無冠の帝王』に主任記者として出演。
第1回の稽古が上出来でおおいに浮かれる。
17日釧路病院長が置いていった毛生液(薬)を今夜からつけ始める。
19日日景主筆が旭川へ出張のため、編集上の一切の責任を負う。総計調査『釧路発達状態一覧』について各担当に命じる。
20日鉄道冬期操業視察隊一行来釧。小樽日報時代の同僚沢田天峯が視察隊一行に同行し、啄木の部屋に泊まる。
21日冬期操業視察隊一行と共に釧路新聞社前で記念撮影。喜望楼で視察隊歓迎会。
22日 『釧路実業新報』の創刊祝いで鶤寅へ。
「小奴のカッポレは見事であった」
24日 佐藤衣川と鶤寅亭へ行き、そのまま小奴の家に遊びに行く。
「小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活発な気持のよい女だ」
26日宮崎郁雨から35円の電報為替を受け取る。鹿嶋屋へと鶤寅へ。
28日施網漁業についての社長からの特電を号外で出す。宮崎郁雨から15円の送金。 第三小学校改革に関して、記事掲載の中止申し込みに遠藤隆が社に来る。
29日 「自分は、釧路に於ける新聞記者として着々何の障礙なしに成功して居る。」
「社へ行ってから、遠藤君から12円80銭送ってきた。」
3月 1日敗徳教員問題について、記事中止の申し入れがあった。
3日日景主筆、鉄道操業視察を終えて無事帰社。鶤寅で慰労会。本行寺の歌留多会に佐藤衣川と参加。
5日 「夜に入って吹雪となった。」
「城東子と連立って鹿島屋に進撃した。追風を背に受けて、人一人通らぬ真砂町を走った。」
7日冨士屋旅館で記者月例会。席上、記者倶楽部建設(予算三千円)の件、決議。
8日大風雪。第三小学校の児童学芸会を取材に行くが中止、帰ることが出来ず学校に仮泊。
9日 「街上の雪は屁まで達して居る。」
「生れて初めての大風雪、形容も何も出来たものぢゃない。」
印刷工場にまで雪が入って機械故障となり一日休刊。
10日「出社して、風雪被害の記事一頁を書いた。田舎の新聞には惜しい程の記事と思ふと、心地がよい。」
11日 終日大吹雪。
「8日以来各地との連絡全く杜絶、全道の鉄道不通、通ずるのは電信許り。」
13日本行寺の三尺ハイカラ、笠井病院の梅川操の印象をながながと日記に書く。
14日啄木の部屋で歌留多会を開く。男ばかりのところに梅川操が参加する。
15日第三小学校の児童学芸会を取材。歌留多会のあと知人岬の下の海岸を散歩。
16日章魚を喰って腹痛をおこし欠勤。
17日「何となく不快で今日も休む。」梅川操が造花の薔薇一輪を持って見舞いに来る。
20日 鶤寅に行く。
「小奴は、送って行くと云ふので出た。(中略)手を取合って、埠頭の辺の浜へ出た。月が淡く又明かに、雲間から照す。 雪の上に引上げた小舟の縁に凭れて二人は海を見た。」小奴の身の上話を聞く。
22日 米町宝来座で開かれた大風雪羅災者救助の慈善演芸会を取材。
「夢が結べぬ。それからそれと考へて、果敢ない思のみ胸に往来する。つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになった。噫」
23日 「何という不愉快な日であらう。」
この日以来啄木は釧路新聞社に出社しなかった。
「鎌田は丸コ女将の頼みを享けて、僕と小奴の間に離間策 ───」
25日「石川啄木の性格と釧路、特に釧路新聞とは一致することが出来ぬ。」
26日「少し許り神経衰弱が起つたらしい。立つと動悸がする。横になつていると胸が痛む。不愉快だ。」
28日白石社長からの電報。『ビョウキナヲセヌカへ、シライシ』を受け取って釧路を去る決意する。
29日「目をさまして、此頃何日でも寝汗の出てるのが誠に厭な気持。」
30日「万沢医学士が来た。"不平病なら僕の手では兎ても癒せぬのですが"」と云って聴診器をとる。
4月 1日東京へ行くための金策をする。
2日安田船舶部で乗船手続きをする。宮古寄港函館行きで3円75銭の2等の切符を買う。旅館に泊まる。
3日神武天皇祭。10時、波止場へ行き酒田川丸に乗船。349頓の汚い船。出帆が延びて船に宿泊。
5日酒田川丸、積荷の関係で3日遅れで午前7時半抜錨。76日間の釧路での生活が終わった。